小説「さまよえる脳髄」

昨日DVDで見た映画の原作を引っ張り出して読んでみた。

この小説、読んでいるはずなのだが、こうして再読してみても、印象がない。逢坂剛を読むようになったのはそんな昔ではなく、ここ3〜4年以内のはずなのだが、我ながら見事な記憶力だ。定年退職したら、これまでに読んだミステリーを全部読み返すことにしようか。初めて読んだ時と同じようにわくわくハラハラできるなら、それはそれで楽しい。5年くらいかけて読んだら、もう一回読み返そう。エンドレスに楽しめるかも。

ところで、原作と映画にいろいろと違いがあるのは当然なのだが、これはプロットは似てはいるが、全く別の作品になっていた。映像化に当たって、原作を既に読んだ人も楽しめる(先が読めない)ように、との意図なのだろうか。

小説では藍子と海道が知り合うところから始まるが、映画では既に恋人同士であったり、最初に暴行傷害で捕まり、藍子が精神鑑定を行なう追分は、小説ではその後も絡んでくるが、映画では無罪になって終わり。また、小説では割と重要な役どころの歌手・北浦伍郎が映画には登場しない。このあたりは、長い小説を100分の映像にまとめるためにポイントを絞った結果だろう。

追分は小説ではプロ野球の投手であり、暴行を働いた相手は追分を脅迫していたが、映画ではテニスクラブのメンバーで(プロ選手ではなく)、暴行を働いた相手とは面識があった程度。本間は小説ではギタリストだが映画では書店の店員。このあたりは、変更の理由は不明だが、大きな問題ではない。

しかし、肝心要のところは全く違う。映画では女性に制服を着せ、それを切り刻んだ上で殺す。ところが映画では犯人が自分で女装して女を殺し、かつ、女性の瞼を死体から切り取るという猟奇殺人になっている。かなりグロテスクであり、瞼を切り取る場面は目を背けてしまったが、これは原作にはなかった。おまけに、なんで犯人がわざわざそんな真似をしたのか、解き明かされない。

また、映画では犯人は早い時期から藍子に嫌がらせ(?)の電話をかけ続けるが、これも映画だけの設定。

衝撃のラストシーン、生身の藍子が鏡の中の藍子と睨み合う場面は、さすがに映像の迫力が勝る。が、その藍子を海道が襲うというのは、原作には全くないどころか、むしろ設定としては逆になる(原作では藍子が海道を殺す? らしきことが示唆される)。

というわけで、原作は、ハラハラはするがグロテスクではなく、不可解な事件も最後は納得のいく説明が与えられる、よくできた小説になっているが、映画はその点、少々疑問の残る筋立てになっている。

もっとも、高島礼子の存在感は際立っていた。そういう意味では、やはり映画の印象は強烈だ。

さまよえる脳髄 (新潮文庫)

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さまよえる脳髄 (集英社文庫)

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