2011年の決意 (2)

よく「考えたことを書く」という言い方をするが、たいていの場合それは正しくない。実際には「書きながら考える」ということがほとんどではないか、と思っている。頭の中で漠然と考えていたことがあっても、文章化する段階で、明瞭に、具体的に表わさざるを得ず、その過程を経てはじめて本当に考えたことになるのだと思う。また、いったん文章に書いたものを読み返して、考えの不備に気付くこともある。というより、それを繰り返すのが「考える」という作業なのだと思う。

ある時、僕はXというものに対して、それはAであるという意見を持っていた。いや、Aであるというのが自分の意見なのだと思っていた。ところがそれを文章に書いてみると、冒頭の「Xという現象があり……」と文末の「……だから、それはAなのである」がどうにもうまくつながらない。とにかく接続詞がうまくつながっておらず、全くロジカルな論理展開になっていないので、文章の流れが自然になるように文頭から書き直したところ、文章は非常にすっきりとしたのだが、結論は、「……だから、それはAではないのである」となっていた、ということがある。僕は、自分の意見はAなのだと思っていたが、本当はAではない、というのが自分の真意なのだと気付いて驚いたことがあるのだが、ここまで極端なことは稀だとしても、文章にはこういう力もある。

だから、文章を書くということは「考える」ということで、それは「自分と向き合う」ということであって、そもそもそんなに楽な作業ではない。少なくともそういう文章が毎日毎日コンスタントに生み出せるはずがない。たくさん書いてしまうのは気楽に書いてしまうからで、気楽に書くのは考えていないからである。そうした文章に価値がないとは言わないが、本来僕が書き残しておきたいと思う理想とは離れている。

あまり更新しないようにしたい、というのは、もっと自分と向き合った文章を書きたい、という意味なのだが、これは本当に苦しく、つらい作業なので、あまりやりたくないのが正直なところでもある。