技術の価値

日本の製造業が危機に瀕している。

と、いきなり大上段に構えても後が続かないのだが、どうも今の世の中は、こつこつと長い時間をかけて積み重ねて行くことを軽んじたり莫迦にしたりする風潮があるような気がする。世の中はどんどん移り変わっているのだから、新しいことにどんどん対応していかれるような器用さが要求されている、というわけだ。それはそれでわかるが、そればかりがもてはやされるのはどんなもんであろうか。

抽象的な表現をするとわかりにくいので、具体例を挙げてみよう。たとえば「「なんちゃって起業熱」が蔓延 下流脱出は幸せか」AERA、2005/12/19)の中に例のある、インターネットのオークションで18,000円で買ったジャケットが21,000円で売れた話。

自分が着古したジャケットを「捨てるよりは」と売って何がしかのお金を得る、というのならともかく、始めから差益を得るのが目的の売買らしい。こうした「ブローカー」というのは、確かに昔からある職業ではあるのだが、いい若い者がこんなことに手を出していたら、10年前、20年前なら、そんなことで小銭を手にして喜んでいないで、本業に精を出せ、手に職をつけろと言われたはずである。今は、「それは目端が利くなあ」と評価される風潮がある。

一方、ここに編み物が趣味の人がいて、ある日知人からセーターを編んでくれと頼まれて、3,000円を得たとする。購入した人はセーターを得て暖かい思いができる。編んだ人も、人からお金が貰えるほどの腕前は、長い時間と努力によって身につけたものであり、それは大変貴重な技術である。しかし、今はこういう特技を持つ人を褒め称える風潮はなくなってきたように思う。「ユニクロに行けば半額で買えるよ」とか、「そういうのは今後は中国とかフィリピンとかでやるようになるから、そんな技術を身につけても意味がないでしょう」とか言われたりもする。

編み物で食べていくことはできないかも知れない。それを言うなら、18,000円のジャケットを21,000円で売ったところで、それで食べていくことはできないだろう。問題は技術を評価するかどうかの話。いや、21,000円で売れるものを18,000円で買ってくるのだって、経験や技術がいると言われるかも知れない。ただしこの場合、最終的な購入者が始めから18,000円のジャケットを見つけてしまえば出番はなくなる。セーターの場合、最終的な購入者が毛糸を前にしてもどうしようもない。それが「技術」の価値なのである。

技術を身につけることは時間がかかる。そういう時間のかかることは嫌われて、ちょっとしたアイデアと、いくばくかの運を味方につけて、一攫千金を夢見る人がいて、それが必ずしも否定されない風潮が一部にある。一部であると思いたい。

「ひとりごと2話。」(sugarless、2006/01/09)を読んで、そんなことを考えた。