オラは死んじまったダ

17日(土)に加藤和彦が逝った。自殺と聞いて「いったいなぜ……」と思ったが、その後のニュースで、一ヵ月ほど前からうつ病の症状が悪化していたこと、最近、愛蔵のギター・コレクションを友人たちに手紙を添えて分け与えていたこと、自殺する前に入院中の母親を見舞っていたこと、遺書には「死にたいというより生きていたくない」などと綴られていたらしいことがわかってきた。病気のせいかも知れないが、覚悟の自殺だったのだろう。

訃報が流れて以来、いろいろなニュースサイトやブログでトノバン(加藤和彦)のことが書かれているが、決まったエピソードしか出てこなくてツマラナイ。知られざる(あるいは忘れられた)エピソードをいくつか紹介してみる。リアルタイムで彼を知っていた人にとっては、周知のことだと思うが。

  • 日本で初めてロールス・ロイスを購入したのは加藤和彦。当時販売ルートはなく、イギリスまで直接交渉に行き、個人輸入のような形で持ってきた。購入の際に通訳をしたのは作家の故・景山民夫。本当は高橋ユキヒロが同行するはずだったが、風邪をひいてしまい、急遽景山が代役を務めた。加藤はディーラーの人に景山を「ショーファー(運転手)です」と紹介したという。
  • 泉谷しげるの「春夏秋冬」は、CDには「加藤和彦のプロデュースによる歴史的名盤」と書かれた帯が付いたが、レコードでは彼の名前はクレジットされていない。当時は、そういう職種がなかったのだ(井上陽水の初期のアルバムではレコード会社の社長がプロデューサーとしてクレジットされている。日本で「プロデューサー」というタイトルが定着したのは、松本隆岡林信康のレコードをプロデュースし、名前を記載してからだと僕は考えている)。
  • その「春夏秋冬」では、高中正義がベースとギターで演奏に参加している。ベースは見事だがギターはお世辞にもうまいとは言えない(意外と知られていないが、当時の高中はベーシストとして定評があり、他のミュージシャンのレコードでしばしば演奏している)。高中のギターが注目されるようになったのは、サディスティック・ミカ・バンドに加わってから。あの「春夏秋冬」での演奏を聴いたら、普通は彼にギターをこれ以上弾かせようとは思わないはず。しかし、彼が今やスーパーギタリストとして広く知られているのはご存知の通りで、ベーシストのままだったら今日の成功をかちえたかどうかはわからない。本人の希望があったのかも知れないが、彼にバンドのギターを任せたのは加藤の慧眼といえよう。〔本項は僕(CHARADE)の憶測が含まれているのでご注意〕
  • サディスティック・ミカ・バンドは、日本のミュージシャンとして初の海外ツアーを行なった。
  • サディスティック・ミカ・バンドの二枚目のアルバム「黒船」は、一般的な意味でヒットはしなかったが、当時の日本のポップ界の常識を覆したといわれ、現在に到るも評価の高いアルバムである。プロデュースはクリス・トーマス*1彼らのファーストアルバムを聴いたクリスが、是非自分にプロデュースをやらせてくれと名乗りを上げて実現した。
  • このクリスと、加藤の妻でありバンドのボーカルであるミカがデキてしまい、加藤夫妻が離婚に到ったため、バンドは解散。もう少し地道に活動を続けていれば、海外(イギリス)での評価はもっと上がったと思うが、残念だった。ミカは「いいじゃん、離婚したってバンドはやろうよ、とトノバンに言ったのに、彼はそういうのはダメなんだよね」とのちに語っているが、そもそもお前のせいだろうがよ、ミカ!

*1:ビートルズの「ホワイト・アルバム」のプロデュースはジョージ・マーティンがクレジットされているが、実際にはほとんど関わっておらず、実質的にプロデュース業を行なったのはクリス・トーマスだったと言われている。

ホワイト・アルバムへの思い入れ

なぜホワイトが好きかというと、理由はいろいろ挙げられるが、他のビートルズのアルバムと比較して、「嫌いな曲が一曲もない」ということがいえる。

ビートルズは、どのアルバムも名曲揃いだという言い方もできるが、少なくとも個人的な好みでいえば、名盤だと思われるアルバムにも気に入らない曲はある。「ラバー・ソウル」なら "The Word" がそうだし、「リボルバー」なら "Got To Get You Into My Life" がそう。「アビー・ロード」なら……

しかし、「ホワイト・アルバム」は二枚組でこれだけ多くの曲が盛り込まれていて、中には習作としか思えないような作品もあるにも関わらず、気に入らない曲、退屈な曲が一曲もないのだ。別に名曲揃いというつもりもないのだけど。

アルバム4面、30曲が組曲みたいに、ひとつの大きな流れを作っているから、その部分部分をいいの悪いの言っても始まらない、という気にさせられる、ということなのかも知れない。