夏休みの宿題と自由研究(その2)

11日付で書いた「夏休みの宿題と自由研究」の記事は、文藝春秋を読んで考えたのだが、実際に文章にまとめてアップするまでに、「14番目のサンダル」の8月10日の文章も目にしていた。夏休みの宿題についてこの時期に書くのは時節柄不思議はないけれど、10日なので、もしかして雪見さんも文春を読んだのだろうか、などと思い、ひそかに親近感を持っている。

あんな小学生ごときがやる「カブトムシの好物の研究」とか「町内の商店街の集客調査」みたいなのがなぜ「研究」と呼ばれるのだろう。

僕は「カブトムシの好物の研究」とか「町内の商店街の集客調査」みたいなのは記憶にない。もし誰かがそうしたことをやっていれば、強く興味を持ったはずである。実際に実験なり実地調査なりをすることの意義は大きい。そこからどういう結論を出し、どういう考察をするかによるが、考察が稚拙であっても、小学生レベルなら十分研究の名に値するのではないかと思う。

とにかく僕は、どこかの理科年鑑かなにかから丸写ししたとしか思えないようなものを研究と称して提出し、それをまたよくできましたという先生に腹を立てていたのだ。自分で実験や調査などはとても無理で、本を読むしかない分野も多いが(特に小学生であれば)、それならそれでせめて類書を5冊くらい読んで書かれていることの比較くらいしろよ、と思った。

大学生の卒業論文がどうあるべきか、については、少し前に内田樹氏が書いている。

ここで内田氏はオリジナリティということを強調している。へー、そうなのか、と思う。僕が大学の卒論を書く時の指導教官は逆のことを言っていたからだ。大学生ごときが、いちいち新説を出せるものではなく、無理に出しても、ほとんどの場合、理解が不十分であるに過ぎない。だから、ある程度ホネのある理論を、自分はこれをこういう風にここまで理解しました、とまとめるだけで、卒論レベルとしては十分でしょう、と。これはもちろん人によるだろうし、専攻分野にもよると思う。

もしオリジナリティが重要だとするなら、先の小学生の「町内の商店街の集客調査」などは非常に優れたテーマだということになる。きっとそんな調査はどこの誰もやっていないだろうから、明らかに独自性はある。それが何の役に立つかは別の問題だ。

「研究」というからには、調査と考察、少なくともこの二つは必要だろう。そして、調査と考察に独自性があれば、研究内容自体が既知のものであったとしても、研究と称して構わないのではないかと思っている。小学生はもちろん、大学生くらいまでは。まあ、大学院生ともなれば、そうも言っていられないだろうが。

ところで、雪見さんの文章に関連して、柿柳先生が興味深いことを書いている。

勉強という言葉を大学生以上が用いて欲しくないと真面目に思っている。非常に努力するという意味もわかるが、やはり字面や語感から、「強いられる」という感覚が強いのだ。強制だ。大学からの知的探究はけっして強いられたものではない。自由意思の発露である。

もしそれを研究という極めるところまで好まないとすれば、学習、学んでこれを習う、また楽しからずや、を使えば良い。というわけで、学習はどうだろう。

これは初耳であった。僕の認識では、学習=learn、勉強=studyで、「学習」の方がある枠の範囲内のこと、たとえば授業の復習をするとか、教師に指定された問題集をやるとかいうもので、多少受身のイメージがあり、「勉強」の方が自分でテーマを設定して調べる、という積極的、創造的なイメージである。恐らく、世間的にもその方が一般的のように思う。これはぜひ調べてみなけれないけない。