北山修さよならコンサート

テレビ番組表を眺めていたら、NHK BS2で「きたやまおさむ名曲コンサート」があるというので見てみた。

最近では本業と区別して、音楽方面で名前を出す時はひらがな表記にしているらしいが、どうもなじめない。その本業だが、精神分析科医で国立大学の教授だというのは知っていたが、九州大学の大学院で教鞭を取っていたとは知らなかった。こういってはなんだが、九大といえば名門中の名門であり、やや意外だ。仕事の関係で何度か九大には行ったことがあるため(医学部ではないが)、懐かしさもあった。

その九州大学を今年3月で退官となり、3月21日に北山のプロデュースで九大で「さよならコンサート」が企画され、自身の作詞した曲を坂崎幸之助などが歌った。そのコンサートの録画だった。3月のコンサートが今ごろ? と思ったが、その後検索してみると、いったん5月に放送されたものの再放送らしい。

このコンサートに参加した人や、5月のテレビを見た人のレビューがいろいろ見つかったので、リンクしておく。

ガリバー通信の記事にはちょっと訂正を入れておく。「帰ってきたヨッパライ」の作詞に北山修はほとんどかんでいない。途中に入るセリフの一部を作っただけだと本人がエッセイで書いている。作詞は松山猛。それから加藤和彦の愛称は「ドノバン」ではなく「トノバン」。

それはそれとして、録画もしなかったが各氏が詳しく記録してくれているおかげではっきり記憶をたどることができる。

今回のテレビでも、(医師以外の側面として)作詞家としての部分がクローズアップされていた。確かにある時期ヒット曲を連発した素晴らしい作詞家であったのは事実だが、フォークル解散後はラジオのDJを務めてこれが大人気、さらにエッセイ「戦争を知らない子どもたち」「さすらい人の子守唄」などがベストセラーと、主に言語の面で当時の若者のカリスマ的存在だったのだ。今は時代もあってか、有名人はいてもなかなかカリスマという存在はいない。だから今となっては想像がつきにいかも知れないが、彼の言葉に一喜一憂し、彼の言葉に泣き笑う。強烈に時代(70年代)を引っ張っていくリーダーだった。

その後、そうした活動がどんどんターミネートされていき、こちらも少し成長して一人の人間の言葉に左右されるようなことがなくなっていく、そうしたころに彼が出した本、たとえば「人形遊び」などは、芸能界のことが話題に取り上げられていても、明確に精神分析医としての立場で書かれており、やや難解ではなるが、むしろ納得のいく説明が多く、僕自身は高校時代、この時期の彼に心酔していた。

だから、彼の本業が医師であるというのはごく自然に納得していた。が、音楽活動、芸能活動という、普通の人の滅多にできない体験もが彼の分析の対象であり、そうしたバックグラウンドが、医師としての彼に大きな意味を持っているんだろうな、とも感じていた。

北山修のテレビ出演は約40年ぶりである。テレビに出なくなった理由として、

  1. 自分は歌がうまくない。そんなことはないと言ってくださる方もいるが、他の人の歌を聞いているとやる気をなくす
  2. マスコミに担ぎ出され、マスを相手に何かをするというのにもうついていけなくなった
  3. 医師、特に精神科医というのは患者の心の秘密を扱う。やたらにテレビに出てあれこれしゃべるようだと、患者が不安になる

を挙げていた。「年に一回くらい、他の人がゴルフをやるような感覚で音楽活動をしていました」と。

以前に読んだエッセイでは、自分は医師が本業であり、それは歌手の片手間にできるようなことではないから、というのが一番大きな理由として挙げられていたと記憶するが、微妙に変わってきているのか。

しかし、「歌がうまくない」には笑った。確かに歌はうまくない。歌手としてレコードを出した時には子ども心にも驚いた覚えがあるくらいだ。このコンサートでも、坂崎や杉田二郎が歌うのを本人は聞いているだけ。アンコールの時にようやく歌ったが、やっぱり下手だ(笑)。味があるとはいえるが、プロのそれではない。もっとも、その意味では(プロの歌手のはずの)坂崎幸之助の歌が下手だったので、そちらの方が驚いた。声質が加藤和彦に似ているという以外にあの場にいる意味があったのだろうか。なんて書いたらアルフィーファンに剃刀入りのメールを送られるかな。

切なかったのは、加藤和彦の存在だ。このさよならコンサートも、元々は加藤が「やろうよ」と声をかけてきたものらしい。コンサートが行なわれた3月21日は加藤の誕生日でもあった。このコンサートを加藤も楽しみにしていたはずなのに、昨年の10月にあんなことに……と北山が声を落として言うと、坂崎が明るく「でも、加藤さん、今日ここにきてますよ」。こういうことを明るく言われると、目のうしろから汗が出てきてしまう。

加藤の死に対して、「ものすごくつらかった。いわゆる悲嘆現象が起きた。一ヵ月くらいそんな状態だった。でも、彼についての歌を作ったり歌ったりすることで、少しずつ乗り越えてきている。人は、どんなにつらいことがあっても、そうやって乗り越えていくものだし、乗り越えられるものだ」という言葉は、人生の先輩として、精神科医として、最後に素晴らしいことを教えてくれたのではないか。

大学を退官するだけで、まだまだ「最後」ではないけれども。