伝説の打撃コーチ、高畠導宏の生涯

  • 門田隆将、「甲子園への遺言」(講談社文庫)

実は、僕は高畠導宏の下の名前を間違って記憶していた。なんだと思っていたのかと言われると正確に思い出せないのだが、とにかく「高畠導宏」という名前には覚えがなかった。だから、この単行本が出た時(2005年)も、文庫化された時(2008年12月)も、テレビドラマ化された時(2009年7月)も、それなりに話題になったけど、高畠って、僕が知っている高畠とは別の人だよね、まあ、高畠なんて珍しい名前じゃないし、打撃コーチの名前までいちいち知らんわ、……と思ってスルーしていたのだ。

プロのあとで高校野球の監督を目指したとか、早世したとかで話題になっているだけだと。実績がたいしたことなくても、そういう人が注目されるんだなと思って、興味がわかなかったのである。落合博満イチロー田口壮小久保裕紀などが教え子、などと書いてあるのを目にして、もー、コーチ在籍中の選手はそりゃ教え子には違いないだろうけど、誇大広告が過ぎるだろう、あの高畠氏じゃあるまいし、……と思っていたのだから、今から思えばおめでたい話だった。

たまたま書店で目に留まり、で、この人どんな人? とパラパラと手にとって拾い読みしたところ、どうやら「あの」高畠らしいことがわかって愕然とし、あわてて買い求めたのである。

もちろん、「あの」高畠氏であれば知っている。アイデアマンで、仕事熱心で、氏のおかげで打撃開眼した選手は数知れず、敵チームの選手までが彼に教えを乞いにきたこともあるという伝説の打撃コーチである。なんで名前を勘違いしていたんだろうな?*1

僕が高畠コーチの名を知ったのは、1973年秋のことだから、かなり古い。実は、漫画の「あぶさん」に登場したのである。

水島新司の創造したキャラクタの荻野征男なる二軍選手が単行本2巻で登場し、一軍に上がってほんのわずか試合に出るが、通用せず、3巻で引退することになる。荻野の背番号は80。高畠の背番号は、コーチになった1973年は74だったが、翌年から80に変更。荻野の引退試合*2に参加した高畠は、背番号がかぶっていることで荻野に気を使わせないように、ユニフォームの上からウインドブレーカーを着込む。試合終了後、畠山が「荻野よ、明日からこの80番を大切にするで」とつぶやく……。

恐らく、荻野を登場させた時は80は空き番号だったのだろうが、高畠が80になったため、荻野を引退させざるを得なくなり、こうしたストーリーを作ったのだろう。そして高畠コーチの名前が当時小学生だった僕の頭に刻み込まれたというわけ。*3

その後、畠山の名前が世間で話題になったのは、野村克也南海ホークスの監督を解任された時だろう。野村がクビになるなら自分も南海にはいられないとして、一緒に南海を辞めたのは、現役選手では江夏、柏原、そしてコーチの高畠の3人だった。このことは野村のスキャンダルとともに結構あちこちで報道された。

野村克也は、引退後に週刊朝日に始めた連載「野村克也の目」をはじめ、いくつかの著書で、高畠が打撃コーチとしていかに優秀であるかを繰り返し述べている。その野村がヤクルトスワローズの監督として久々にユニフォームを着た時に高畠を呼び寄せたが、わずか一年で信頼関係が破綻してしまったのはなんとも残念な話だった。

甲子園への遺言 伝説の打撃コーチ 高畠導宏の生涯 (講談社文庫)

甲子園への遺言 伝説の打撃コーチ 高畠導宏の生涯 (講談社文庫)

*1:付記。いろいろ調べてみたら、高畠導宏が本名だが、プロ野球では「高畠康真」で登録していたとのこと。高畠康真なら知ってるよ!

*2:荻野は一軍半の選手だから、もちろん引退試合と銘打って興業したわけではない。そのシーズン限りでクビを言い渡された荻野は、既に一軍の試合に出る力を失っていたが、その試合(秋のオープン戦)は荻野の地元で行なわれるため、野村監督は温情で最終回の1イニングのみ守備固めで起用する、という話。

*3:高畠が80にしなければ、荻野はもう少し選手寿命が延びた? ともあれ、漫画としてはそのような配慮は当然と思われる。のちに藤原満が背番号90を希望した時、水島新司が「それはあぶさんの背番号だからやめてくれ」とクレームをつけたらしい。いくらなんでも、それはどうかと。