このニュースを見落としていた。しかし、仰木監督が亡くなられた時はあちこちのブログで話題になったが、今回は他のブログで採り上げているのは(今のところ)見ていない。見落としているだけかなあ……。
- 元中日監督の近藤貞雄氏が死去(日刊スポーツ、2006/01/02)
- 元中日監督の近藤貞雄さん死去(日刊スポーツ、2006/01/03)
- 近藤貞雄氏 80歳で死去(スポニチ、2006/01/03)
- 近藤貞雄さん死去…中日、大洋、日本ハムの監督を歴任(サンスポ、2006/01/03)
- 球界のアイデアマン、近藤貞雄氏逝く(大阪日刊スポーツ、2006/01/03)
年齢の割に発想が若く、練習にも采配にも斬新なアイデアを取り入れ、選手の個性を重視し、マスコミにも丁寧に対応してチームの広報に努め、酒好きで、いくつになっても女性のナンパをやめず……と並べてみると、仰木監督と共通する。しかし、斬新なアイデアも、仰木監督の場合は「魔術」と称されて評価されたが、近藤監督が監督をしていた頃は、むしろ悪評の方が高かったように思う。あまりに時代を先取りし過ぎたのか、優勝経験が少ないためか。
一時期はジャイアンツでエースと呼ばれ、わずか二試合だが四番を打ったこともある、堂々たるジャイアンツOBだが、OB会には一度も顔を出したことがない。それは、戦時中、人がいなかった時に苦労してチームを支えた人たちを球団が評価せず、戦後に人が戻ってくるとそうした人たちをあっさり切り捨てたことに腹を立てているためだという。
1982年、あと一勝で優勝というとこまでこぎつけると、ベンチ裏にずらりとビールを並べて、「さあ、グイとひっかけて度胸を据えていけ!」と檄を飛ばした。が、選手は誰も手をつけず、監督一人が飲んでチームは試合に勝ち、優勝を決めた(玉木正之著「プロ野球大大大辞典」より)。近藤監督には最優秀監督賞が贈られた。