あれから19年

それは、落合博満が二年連続三度目の三冠王を獲得するという、空前絶後の記録を残した年である。

セ・リーグではランディ・バースが外国人選手としては初になる、二年連続二度目の三冠王を獲得した年でもあった。が、落合もバースも、この年チームが優勝しなかったことを理由に最優秀選手の選に漏れた。すなわち、三冠王を獲得しながらMVPを受賞できないという事態の起きた、プロ野球史上唯一の年だった。

それは衣笠祥雄が2000試合連続出場の偉業を成し遂げた年だった。また、東尾修がデービスに死球を与え、それに怒ったデービスが東尾に殴る蹴るの暴行をふるうという事件が起きた年でもあった。

それは日本シリーズが史上初の第8戦まで開催された年であり、秋山幸二が同点ホームランを打ってバク転してホームベースを踏んでみせた年であり、不世出の大打者、山本浩二が現役を引退した年であった。

しかしこれらのことも、のちに振り返った時に、「清原がデビューした年の出来事だった」として思い出すようになるのではないか。1986年というのは、そういう年だった。少なくとも当時、僕はそう思っていた。

清原和博

高校時代は名門PL学園高校で1年生の時から四番を打ち、甲子園大会は5大会連続出場。優勝2回、2位2回とチームが無敵を誇る中、個人の打撃成績も一試合3本塁打、三試合連続本塁打、一大会5本塁打、通算13本塁打など、いまだに破られていない数々の記録を樹立。高校野球史上最強の打者と言われた。ドラフトでは6球団が一位競合し、最終的に西武ライオンズに指名されてプロ入りを果たすことになる。

開幕から一軍となり、開幕試合は出番がなかったものの、翌4月5日に途中出場を果たすと、第二打席で本塁打を放つ。初ヒットがホームランという峻烈なデビューを飾った。

当時のライオンズは、4年間で3度のリーグ優勝、2度の日本一を果たした強豪チーム。野手はチームリーダーの石毛を中心に、秋山幸一、辻発彦伊東勤金森栄治など力のある若手が伸びてきて、第二次黄金時代を築こうとしていた。

そんな中で清原は堂々と一軍に定着。4月8日に8番で初スタメン出場を果たすと、徐々に打順を上げ、5月27日には早くも5番を任されることとなった。前半戦を終了して、打率.252、11本塁打は、高卒ルーキーとしては十分合格点といえる数字で、新人王の最有力候補とされた。

その年のオールスターはファン投票一位で堂々と出場権を獲得。高卒ルーキーがオールスターに出場したのは過去に三度しかなく、いずれもノーヒットで終わっている。しかし初戦でいきなりヒットを放つと、第二戦では本塁打を放ち、見事にMVPを獲得。大舞台に強いところをまざまざと見せつけることとなった。

8月6日のバファローズ戦では、8回、ライオンズは1イニング6本塁打という記録を作ったが、清原は二人目として2ランを放っている。

この年、ライオンズは調子が上がらず、前半戦は下位を低迷していたものの、清原が調子を上げるのに合わせるかのように成績も上がり、バファローズと激しい優勝争いを演じることになる。

10月7日に初の四番に座ると、決勝本塁打を放つ(31号)。この日は自身初の敬遠も経験することになる。そして10月9日、2安打1打点で勝利に貢献。この日、チームの優勝が決定した。当時はシーズン130試合制だが、これは129試合目の出来事だった。

翌日のシーズン最終戦、森監督は清原に出場するかどうかの打診をした。この時点で打率.301。ノーヒットで終われば3割を切ってしまう。しかし清原は「出ます」というと、3安打を放って打率を.304まで伸ばした。

年度成績は.304、31本塁打、78打点。これまで高卒ルーキーの成績は、本塁打は1953年の豊田泰光の記録した27本、打率・打点は1955年の榎本喜八の.298、67打点が最高記録だ。清原はこのすべてにわたって大幅に塗り替えたことになる。

日本シリーズではカープと対戦。8試合すべてで4番の座をキープ。緒戦で自打球を左足に当て、親指を骨折するというアクシデントに見舞われたが、フル出場を果たし、31打数11安打、打率.355。シリーズ首位打者および最多安打を記録して日本一に貢献、優秀選手賞を獲得した。

落合博満は「右側に本塁打できる技術は、オレが10年かかって身につけたものだが、清原は既にそれを身につけている。オレのあとで三冠王を取れるのはアイツだよ」と絶賛し、野村克也は「ライオンズは、今後20年、四番打者の心配はいらない」と評した。