子供が作文に書いてはいけないこと

1972年2月6日、日曜日。まだ小学生の時の話だ。

日記を書かないといけなかった。冬休みでもないのになぜなのか、細かい経緯は忘れたが、先生からそのような指導があったのだろう。書いた日記は先生に見せる必要があり、そのため、事前に親のチェックもあった。

その日は雨で(雪だったかも知れない)、雨だ、やることがない、退屈だ、……みたいなことを数行書いて終わりにした。ところが、それを読んだ親に叱られた。こんな日記があるか、というのである。書くことがない、と言い訳すると、テレビでオリンピックでも見て、その感想を書けばよいと言われた。

1972年の冬は札幌で冬季オリンピックが開催されていた。冬季オリンピックが日本で開催されるのは初のことで(アジアでも初)、世間はかなり盛り上がっていた。しかも2月6日のその日は、メダルが期待されるジャンプ(70m)がある。今風に言えば、日記ネタとしておいしいコンテンツ、ということになろう。

それでテレビを見始めたのだが、この時は笠谷幸生金野昭次青地清二の日本人が1、2、3位となり、表彰台を独占するという結果に終わった。アナウンサーは興奮して絶叫し、そのシーンはそのあと何度も何度も何度も何度も画面で繰り返され、のちには「戦後史に残る名場面」とさえ言われるようになる。日本人の多くに勇気と自信を与えてくれた、時代を画する出来事だったのだ。

というわけで、日記にはそのことを書いた。臨場感あふれる、感動をありがとう的な……要はスポーツ新聞の記事のような感じでまとめてみた。当時はスポーツ新聞など読んだことはなかったが、テレビのアナウンサーの喋ったことを文にしたらそうなった。

翌日、先生からは大きな花丸をもらった。恐らく同じテレビを見て興奮したであろう先生が、文章ではなく内容に共感し、あれはすごかったね、感動したね、という意味で「いいね」した、というところだろう。ネタがよかったのだ。その意味で、親の判断は間違ってはいなかった。

しかし、親に逆らえないまま元の文章を消し、書き直してしまったことを、あれから40年以上経った今でも悔いている。自分は、オリンピックなどに何の興味もなかった。ジャンプなんて競技は知らなかったし、メダルを誰が取ろうがどうでもよかった。どうでもいいことを日記に書きたくなかった。

自分にとって1972年2月6日という日は退屈な一日だったのだ。「退屈」というのは自分自身の感情だ。日記に書き残すなら、このことをこそ書いておきたかった。